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躁鬱病(BPⅡ)トウビョウブログ
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 また変な途切れ方をしてしまって、失礼しました。前回分は、極私的な事柄でもあり削除しました。一時は落ち込みましたが、今は安定的です。

 この間、色々な変化があったんだけど、何から書けばいいのか。まずは主治医との決裂事件にとらわれていたわたしが、救われたと思った本の話を。その本は、神田橋語録の回で触れた神田橋條治氏の「精神療法面接のコツ」(岩崎学術出版社)だ。
 わたしは主治医と決裂して以来、自分が悪かったんじゃないか、主治医の言動にはわたしには窺い知れない治療的な意図があったんじゃないか、などと思い悩んでいた。そのせいで、復職のことを考える余裕さえ失っていた。そんな泥沼から抜け出したかった。それで、治療者が面接(診察)のときに、どんなことを考えて患者と接しているのかを探れるような本を読みたいと思った。読めば主治医のことをもっと理解することができるんじゃないかと考えたからだ。何とか解決の糸口を掴みたかった。
 前に知ったかぶって「語録」なんて書いたが、神田橋氏のことをよく知っていたわけではない。最初はネット書店で検索しただけだ。ある種のカリスマ的なひとらしいということが分かり、本に対しても名著という評価が多かったが、ふーんと思っただけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。だが、読んでみて、名人芸と評されるゆえんが素人なりに分かったような気がした。わたしは医者ではないし、患者歴も短いが、わたしの短い経験に照らしてみても思い当たることがたくさん書いてあった。ああ、あのときのあれは、こういうことだったのかと、絡まっていた糸が解きほぐされるような体験を、読んでいて何回もした。精神科医の書いた本を少しは読んだことがあったが、こんなに腑に落ちることが書いてある本は初めてだった。

 事実、わたしはとても救われたのだ。本を読んだだけで主治医との問題から解放されたと言っても過言ではない。それは、第8章「関係の中の治療者と被治療者」を読んでいるときに起きた。神田橋氏はまず、患者が助力を求めている場面で、治療者が往々にして「試されている」と感じるようになると指摘していた。
 「この認知は正しい。治療者の技量があるいは存在全体が、試されているのである。そして、人の心の常として、試しているのは被治療者である、との判断がなされることが多い。この最終判断は早とちりである。その後の治療をわざわざ厄介なものとしてしまう。被治療者に試されているという被害妄想風の判断がなされると、被害状況への対処パターンが、治療者の内に引き出されてくる。治療状況は治療者受難の図となったり、治療者側からの逆襲の図となったりする。悲劇である」

 都合のいい解釈なのかも知れないが(たとえば主治医なら違うと言うかも知れない)、わたしはここを読んで<わたしたちのこと>が書いてあると思った。わたしと主治医のこと。何度も書いているが、わたしは主治医が旧世代の抗鬱剤を安易に処方したことで躁転し、不安定になったのではないかという不信感を抱いていた。だから診断や薬の是非を尋ねた。先生のことは好きだったし、できれば対立なんてしたくなかった。でも、先生の言い方は、わたしから見ればいつも曖昧模糊としていて、明確で納得のいく説明はなかなか受けられなかった。だから、同じような質問を繰り返すことになった。
 そんなことが積み重なるにつれ、わたしは先生から嫌な患者だと思われることを、強く恐れるようになった。待合室で名前を呼ばれるのを待つ間、ひどい動悸に悩まされた時期もあった。その恐れの実像を、神田橋氏は的確に言い当てていると思えたのだ。
 先生は、わたしが先生と張り合うためだけに医学的な知識を仕入れ、先生を試しているように感じているんじゃないか--。わたしはたぶん、そんなふうに恐れていた。そして、先生はたぶん、多かれ少なかれ、わたしのことをそう見ていた。おたがいに「逆襲」を繰り返す図、これがわたしたちの治療関係だったようにも思われる。
 その先にあったのは治療関係の破綻だった。

 対処法は判断の是正だ、と神田橋氏は続ける。「すなわち、試しているのは被治療者ではなく、目前の治療状況なのだと、手前のところまでで判断を止めることである」「一言で言うと、被治療者は一所懸命になっているのである。それを『試し行動』と受け取られたのでは、被治療者は浮かばれない」
 正直に言って、わたしはこのくだりを読んだとき、家ではなかったのに思わず泣いた。わたしを許してくれるひとがいる。わたしが罪悪感を感じていた「試し行動」的な主治医への接し方を、このひとは治るための努力なのだと肯定してくれている。そのうえ、それを「試し行動」と切り捨てたら、かわいそうじゃないかと擁護までしてくれている。
 勿論、患者を肯定する立場から書かれているから受け容れやすいのであって、異論もあるだろう。わたしと主治医との関係に限定するにしても、主治医の方が一方的に悪かったと言うつもりはない。
 でも、わたしはこれで救われた。ああ、自分は治ろう治ろうとしてもがいていたんだと、自分で自分を肯定することもできるようになった。これが8月下旬の出来事だった。(続く)
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