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躁鬱病(BPⅡ)トウビョウブログ
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 舌が震える。前に飲んでいたリーマスやコントミン、ルーラン、今飲んでいるセロクエルの副作用だと思う。リーマス以外はすべて抗精神病薬で、中でもルーランとセロクエルは「非定型」抗精神病薬に分類される。比較的、最近発売された薬のことで、昔からある「定型」抗精神病薬より副作用が少ないとされている。わたしの場合、飲み始めから4カ月で症状が現れた。ごく微細な動きで、神経内科では、副作用である錐体外路症状ではないと診断された。でも、そんなことを言われたって、以前はなかったのだから、納得できるはずがない。目に見えるので、気のせいでもない。不快感も強い。それで、当時の主治医が、非定型抗精神病薬の中でも最も錐体外路症状が出にくいとされていたセロクエルに切り替えてくれた(今ならエビリファイになるかも知れない)。
 以来、かなり治まったが、完全になくなってはいない。不思議なのは、これがストレスを感じたときに顔を出すことだ。身体の疲れでも精神的な疲れでも起きる。ストレスが強まれば、ひどくなる。だから、無理やり前向きに捉えるなら、自分が何を負担に感じているのかを知り、過剰な負荷を避けるためのシグナルとして利用することが可能ではある。因みに、例のカプランのハンドブックにも、同症状の一つである遅発性ジスキネジアについて「ストレスで悪化し睡眠中には消失する」と書いてある。

 今日の震えは、主治医の一言がきっかけだった。
 病気になってから、わたしは身体のことを心配し過ぎる「心気症」的な面に悩まされている。現在の、気分への過剰なとらわれも、その一つとして自覚している。神経症化の恐れも指摘されている。一口で言えば、気にし過ぎである。これに元来の強迫性が加わって、専門書を読み漁り、処方に猜疑心を募らせた。生半可な知識で異議を唱えてばかりいるわたしは、きっと最初から招かれざる患者だったと思う。
 今日は久しぶりの診察だった。今思えば、主治医は途絶えた期間の長さの分、心気症が緩和されていることを期待していたようだ。だが、再び現れたわたしは、以前と同じか、より心気的になっていて、薬に関する質問を並べた。「なんだ、全然変わってないじゃん」。主治医は悪びれる風でもなく言った。多少なりとも患者として成熟したつもりだったわたしは、少なからずショックを受けた。そして次の瞬間、「先生を失望させてしまった」という焦りに苛まれた。どう成長すべきだったのか、それをどう裏切ったのか。残りの会話は、頭に入ってこなかった。
 急なアポイントを入れ、1時間後にはカウンセラーの元にいた。予定の60分を超えて話し、ようやく焦燥感の正体が掴めた気がした。問題なのは、主治医の言葉でも、わたしの受けたショックそれ自体でもなく、そこから透けて見える主治医とわたしの関係性なのではないかと思えた。

 転移・逆転移という言葉が示すように、精神科の領域では患者と治療者の関係の在り方が難しい。患者の抱える問題や、治療者の距離感の保ち方にもよるだろうが、他科より葛藤が生じ易いのは間違いない。わたしの場合、主治医に対する「見捨てられ不安」が強く、期待に添おう関心を繋ぎ留めようと努めてしまう。だが、わたしのそういうスタンスは、必ずしもわたしを<治る方向>には導かないのではないか。
 誤解を恐れずに言えば、病気は元々、アイデンティティになり得るものだ。病気の影響で、昔のそれを失う恐れがある場合は尚更、病気にしがみつきたくなる。療養に専念する時間が長くなればなるほど、必然的に、その傾向は強まる。ホスピタリズムという言葉もある。病気によっては全否定できない側面もあるだろうが、それが存在している治癒の可能性を阻害する方向に働くなら、不幸なことだ。
 そこでふと、我が身を振り返るのである。わたしもまた、主治医に依存することで、病気にすがってはいないか?自分が本当に治りたいと思っているのか、時々分からなくなるのは、そのせいなのではないか?
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うん
きたまる 2006/07/14 (Fri) 05:40:22 EDIT
それは心配しなくていいんじゃないかな。病気にすがっちゃいないでしょ。

すがっているのは、そう書くことで、そうじゃないということを確認したい、という思いにすがっている、という感じか。それが文章を書くということの、ある意味、“副作用”かもしれません。でも、この副作用は片がつけられるからだいじょうぶだよ、きっと。

しかし、その先生、言うにしても、「なんだ、全然変わってないじゃん」って、口語体はないかなあ……でもまあ、その関係性を知らない私が論評しても的外れになるかもしれない。ぎゃくに、そういうことを日常性の言葉の中で伝えるという演出なのかもしれないし。

「病気は元々、アイデンティティになり得る」。でも、アイデンティティそのものも構築的/構成的なものだから、それは簡単にどうにでもなる可能性は常に持っている。つまり、自分はどうであるか、というアイデンティティではなく、自分はどうでありたいか、というアイデンティティも可能なんだと思います。

そこで、冒頭に戻って、「そうじゃないということを確認したい」という、それが目下の筆者の自己同一の核なんじゃないか、と読んでいるのですが。

それにしても、舌の震え、どうにかしたいですね。


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