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躁鬱病(BPⅡ)トウビョウブログ
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 2年前のきょう、事故は起きた。車好きの彼は、やっととれた遅い夏休みに、中古で手に入れたばかりのスポーツカーを走らせていた。大雨の降る夕方、慣れない土地でのことだった。前の車を追い越そうとしたと聞いたが、真相は分からない。彼の車はスリップし、川に落ちた。その瞬間、たぶん彼は、もう生きていなかった。助手席には誰もいなかった。彼はたった一人で、見ず知らずの場所で死んでしまった。

 彼は同い年の後輩だった。わたしたちはある時期、それこそ恋人同士のように、同じものを食べ、同じものを見、同じものを追い掛けた。わたしは自分の持っているあらゆるものを彼に伝えた。好きなひとのことや上司の悪口やおかあさんのことや将来の夢や、今は思い出せないような下らない話もたくさんした。わたしが愚痴をこぼすこともあったし、彼の真剣な涙も見た。別々の土地で働くようになってからも、本当に辛いことがあったときに手が伸びるのは、彼の電話番号のメモリーだった。
 その日、仕事の出先で一人で帰り支度をしているとき、携帯電話が鳴った。大学時代に漫才サークルに入っていた、冗談好きの先輩からだった。その先輩が、彼が事故に遭って意識不明の重体だ、と言った。悪い冗談やめてくださいよ。そんなわけあるはずがないと、打ち消す気持ちで返した言葉のあとは、涙で続かなかった。
 考え付く限りの彼の友人に、電話をしまくって、それを知らせた。まるで通信社の配信のように次から次。なぜそんなことをしたのか、今でもよく分からない。とにかく、くるったように電話し続けた。かける相手がいなくなると、呆然としたまま会社に戻った。家には足が向かなかった。職場で、彼と同じように大切に思っている後輩を見たら、また涙が止まらなくなった。その日は上司や同僚と朝までお酒を飲んだ。
 彼の郷里で営まれた葬儀には、遠くからたくさんの仲間が集まった。わたしはまた泣いて、わたしに一報をもたらした先輩からハンカチを借りた。すべてが終わった後、わたしたちはお好み焼きを平らげ、ばかみたいにカラオケを歌った。同世代の友人を亡くすのは初めてだった。彼がいなくなったことに、慣れるのは難しかった。嫌なことがあって彼に電話しようとする、そして彼の不在に気付く。そんなことを、しばらく繰り返した。そして次第に、彼を思い出す回数が減っていった。

 彼が死んだ2カ月後、わたしは初めての欝を経験した。半年以上経って、症状は再燃し、その年の冬に双極Ⅱ型障害と診断された。躁と欝の波に翻弄されるようになってからの希死念慮は、欝だけのときよりも激しく、衝動的だった。そんなとき、わたしは何度か彼のことを思った。大破した車体。息絶えんとする彼のうえに降った雨。お葬式の後のお好み焼き。彼の分まで頑張りますと綴ったお父さんへのメール。
 わたしが今在ることの何分の一かは、だから彼の「おかげ」だ。わたしはこの二周忌を前に、そんなことを伝える手紙を、彼のお父さんに宛てて送った。しかし、御遺族にとっては、あまりにも残酷な便りだったかも知れないと、あとになって気付いた。息子さんが亡くなったおかげで、わたしは元気に生きています、と言っているようなものだから。ご子息の死は決して無駄にはなりませんでした。そんな醜悪で押し付けがましい偽善を、ご遺族に感じさせる文面だったとしたら、取り返しがきかない。
 2年が過ぎたのに、わたしは変われない。わたしの無神経と未熟を、彼に許して貰うことはできるだろうか。自分でやったことへの悔いさえ引き受けられず、こうしてぶちまけずにはいられない情けなさまで引っくるめて。
 夜、近所のお好み焼き屋に行き、テークアウトで広島焼きを買った。死んだ彼と生き続ける自分のことを考えながら、わたしはそれを一人で食べた。
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