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躁鬱病(BPⅡ)トウビョウブログ
2025.05.13 Tue 08:49:46
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東京国際映画祭のコンペ部門にエントリーされている「2:37 TWO THIRTY 7」を観た。今年のカンヌのある視点部門の正式出品作品でもある。傑作だと思った。主題は自殺だ。監督・脚本はオーストラリアの新人ムラーリ K.タルリ。19歳で映画とは無縁だった彼(84年生まれなので今年で22歳)にメガホンをとらせたのは、親友の死だったという。*ネタバレ注意。記憶力と英語力と速記力のなさにより、役名・会見の問答に正確性を欠く部分があるかも知れません。悪しからず、ご了承ください *** 舞台はハイスクール、冒頭でだれかの死が示唆される。主な登場人物は6人で、彼らはそれぞれに深刻で複雑な問題を抱えている。映画は一人ひとりの時間軸をずらし交錯させるかたちでその日の午後2時37分までを描き、インタビューを交えて進んでいく。 6人のうち2人は兄妹。裕福だが両親は不仲で、兄マーカスは父の厳格さと期待の重さに怯え、妹メロディーは父が兄しか眼中にないことに孤独を感じている。そんな家にあって、兄は妹に性的暴行を繰り返していた。この日、兄は90点に達しなかったテストの結果に異常な焦りと苛立ちをみせ、妹は自分が兄の子を身籠もったことを知る。 転校生スティーブンは尿道に障害があり、尿意に気付くより先に尿が出てしまう。両足の長さが違うので歩き方もぎこちない。この日、美術の授業中に尿を漏らした彼は、教師からも屈辱的な言葉を吐かれる。予め用意してある同じパンツとズボンに履き替えたものの、この日はまた失禁してしまって、足を引きずりながら再びトイレへ向かう。 あとの3人の関係性は微妙だ。学校中の誰しもが認める仲のルークとサラに、ゲイであることをカムアウトして間もないショーン。ルークとサラはひと目を憚らずに学校中でキスを交わし、サラは彼との結婚を夢見る。だが、ルークは自分の同性愛指向を認識していて、学校生活を「うまく乗り切るために」それを押し隠さねばと苦しんでいた。 話中、ルークはショーンと性的関係を持っていることが仄めかされる。しかし、ルークは人前では仲間と一緒になって、ショーンの同性愛指向を侮蔑する。この日、ショーンはトイレでルークとキスをしたあと「腰抜け野郎。みんなお前がゲイだってことは知ってる」と吐き捨てる。壁を叩き付けるルーク。偶然、個室で一部始終を聞いていたスティーブンは、出たところをルークに殴り付けられる。だれかに言ったら殺すぞ、と。 流れる鼻血もそのままに歩くスティーブン。そんな彼にティッシュを差し出す女の子がいた。ケリーだった。マーカスに好意を寄せているようで、この日の朝、告白するそぶりもみせていた。だが、妹への屈折した愛情やテストのことで頭が一杯の彼が振り向くことはなかった。ティッシュを受け取ったスティーブンも「大丈夫」とだけ言うと立ち去ってしまった。ケリーはひとり暗い階段を降りていく。階下ではマーカスがメロディーを一方的に罵倒している。お前っておんなは、云々。しかし、今のケリーには虚ろにしか響かない。校庭の樹の青々とした葉が、にじんだようにぼやけて揺れる。 pm2:37。タイル剥き出しの床に身体を横たえ泣く女の子がいた。震える手を押さえ付けるようにして鋏を握り手首を切り付ける。それは6人のうちのだれでもなくケリーだった。死にゆくなか、彼女は声にならぬ声で「助けて、助けて……」と呟き続けた。 *** 上映後、観客も参加できるジョイント記者会見が行われた。それによると、03年に亡くなったタルリ監督の親友がケリーという名前だったのだという。明るい子で、急な自殺は衝撃的だった。死んだ彼女は弱かったんじゃないか、ぼくは逃げたんじゃないか。そうした葛藤と個人的な事情が重なり、監督は自分でも自殺を考えるようになっていく。 クスリと酒を呷った。ソファー、コーヒーテーブル、つけっぱなしのテレビ。意識が遠のいていくさなか、しかし彼が感じたのは恐怖だったという。もし目覚めたら二度とこんなことはするまい、まだやりたいことがたくさんあるんだ。そして幸運にも迎えられたその朝から、わずか36時間で、この作品の初稿を書き上げたというから驚く。 「自殺というのは弱いからするんじゃないかと考えたりもしたが、本当は何かの”瞬間”でやってしまうということなんだと思う」。会見で監督が、こう述べたのが印象的だった。「たとえば終盤、ケリーがスティーブンに『大丈夫?』と声を掛けたとき。もし彼が『君は?』と口にしていたら、違う結末があったかも知れない。そういう瞬間によって生きるか死ぬかが決まってしまうんだ、ということを伝えたかった」 会場からは「最後、わたしたちがあまり知らないケリーが死んでしまう。なぜ彼女のことをもっと知らせるようなかたちで撮らなかったのか」という質問も飛んだ。だが、自殺してしまうひとが、いつもそんなふうに見えるとは限らない。それどころか少なくない場合、ひとは突然、姿を消す。彼や彼女と親しかったはずのひとたちは、何の前触れもなかったことに、少なくともそうは見えなかったことに狼狽し、理由を探しあぐねる。 先の質問への、監督の答えはこうだ。「ケリーが死ぬ前日、学校で自殺しそうなのはだれかと尋ねたら、彼女だということにはならなかったはずだ。6人の主人公たちは、よくぞ死なないでいてくれたと思うくらいに、それぞれが問題を抱えていた。彼女の死を止められなかった、という思いを持って映画館を後にしてほしいと思った。別のとき、だれか困っているひとに手を差し伸べて貰えれば、という気持ちで描いた」。これは勿論、遺されたひとになにかを背負わせるための言葉ではない。監督の目線は過去の数多の自死ではなく、これから先のもっとたくさんの救えるかも知れない生命の方を向いているのだ。 一つだけ、監督と意見が食い違うところがあった。彼は自殺のシーンを美化したりごまかしたりすることなく、生々しく撮ることで「自殺がどれだけ恐いか、苦しいかを見せたいと思った」と話した。悲鳴にもならずに繰り返された「助けて」という呟き。そこに込められた「後悔」を伝えることで自殺抑止に一役買えるんじゃないか、と。 確かに、そんな面もあるんだろう。だが、わたしが受け取ったメッセージは少し違う。シンプルに言えば、自分だけが生死の狭間に立たされているわけではないということだ。当たり前だと思われるかも知れないが、しばしば希死念慮に取り憑かれるわたしは、そのことをよく忘れてしまう。ちょっとした弾みで、ひとはだれでも死ぬのだ。でも、だからこそ、ちょっとした弾みで、ひとはそれを思い止まることができる。 自分以外のだれかの、生と死を隔てる可能性。それをわたしもまた担っている。そう覚えておくことは、死にたい気持ちと闘ううえで大きな力になるのではないか。24日夜、そんなことを考えながら、わたしは渋谷のBunkamuraを後にした。 →東京国際映画祭公式HP内:監督の写真とプロフィールとメッセージがあります PR Comments
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