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躁鬱病(BPⅡ)トウビョウブログ
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 変な途切れ方をして失礼しました。丸2日寝込んで、カウンセリングを受けて、復活。今日(29日)は友人が遊びに来て、昼にトンカツを食べ、買い物で散財し、夜は鶏ソバを啜った。ここ2日くらい、たぶん軽躁方向。でも、もうそういうこと考えるの止めちゃおうかなと思ったりする。

 「アディクションアプローチ」(医学書院)などの著書がある、臨床心理士信田さよ子の「依存症」(文春新書)を読んだ影響が大きい。気分をコントロールしようとすることが、一種の嗜癖になってるんだろうなと考えるようになったせいだ。より正確に言えば、コントロールできないものをコントロールしようと努めるプロセスへの依存である。元々アルコール依存症の専門家である信田は、こう書いている。
 「(飲酒によって)まず仕事に集中させるセルフコントロールが働く。次に集中して疲れた自分の緊張を解除するというアルコールを用いたコントロールが働く。ここまではわかりやすいコントロールである。しかし次に現れるのはアルコールの量を抑えるというコントロールなのだ。この場合のコントロールの対象は自己ではなくアルコールそのものである。そしてそのコントロールに失敗するとさらにアルコールに対するコントロールに集中していく。果てにはアルコールをコントロールすることの目的に日常生活が集中されるという事態にまでいたる」
 ここで描かれているのは、セルフコントロールの手段だったはずの酒が、コントロールの対象自体にすり替わってしまうまでの経過だ。これを言い換えてみたらどうだろう。セルフコントロールの手段だった薬がコントロールの対象にすり替わる、と。
 信田はアルコール依存症者を「日々アルコールを飲むことにとらわれ、今度こそ上手く飲んでやるという一見無意味な挑戦を繰り返している人たち」と評している。スタバでこれを読んだとき、わたしは唸るしかなかった。治療のために処方された薬だから、酒と違って「飲むことにとらわれ」たとしても正当化し易い。しかし、「今度こそ上手く飲んでやる」というのは、まさにわたしの薬への決意そのままなのだった。薬を酒に置き換えてみて初めて、わたしはその滑稽さに思い至った。頑固に否認してきた自分の薬依存症的な現状を、ここへ来て認めざるを得なくなった。だが、依存とは止められなくなることの謂である。どうすれば脱することができるというのだろう。
 一つ確認しておくと、信田が書いている依存症は<共依存によって支えられた嗜癖>のことで、嗜癖行動によって迷惑を受ける第三者の存在を前提としている。すなわち、わたしのように本人が一人で困っているケースは除外されているのだが、傾斜していく過程が同じなら回復の過程も参考にできるだろう。信田はその鍵が、<コントロールする快>から<コントロールしない快>への転換にあると締め括っている。
 躁鬱病のひとにとって、行動の自制による気分のコントロールは確かに重要なのだろう。だが、気分なんて本来、完全にコントロールできるものではない。その不可能性ゆえに実現を目指すプロセスに取り憑かれ、信田曰くの「コントロールの罠」に陥ると、主客転倒して緩解という本来の目的を見失ってしまうのではないか。だとすれば自制を止めることは、治療のルールに背くように見えて実は、わたしのような場合も逆説的に治療法として働くのではないだろうか。

 こう書きながら、膝を打つような感覚が走った。この病気になって、さらに病識(自分が躁鬱病であるという認識)を持って以降、わたしが最も恐れ嫌悪していたのは、自分の感情が<アウト・オブ・コントロール>に陥ることだった。大学受験以来忘れていたこの英熟語を、とりわけ軽躁に転じることへの恐怖感を表すのにぴったりな言葉として、何度医者に訴えたことだろう。本来の自分ではないような喜怒哀楽に襲われ、制御不能に陥るという恐れである。言うまでもなく、それは制御への欲求や、もしかしたら義務感の裏返しである。ああ!こういう抑制が芽生えたのが、病気になってからなのかというのは、新しい別の問題なんじゃないか。前からあって、増強されただけなのかも知れないじゃないか。
 なんて書いてるといつも、100年前から了解されていた自明の理をなぞっているだけのような気がしてくる。でも、医者や心理学者や社会学者や、患者やその家族やとにかく種々のひとたちが、既に発見し考え尽くし、もしかしたらその上で否定されているかも知れないようなことを、病気と付き合っていくなかで自分自身で腑に落ちる論理として再発見していくことが不可欠なんだと実感している。稚拙さを指摘されないための予防線みたいで、ちょっと言い訳がましいけど。
 書き直し書き直ししてたら、朝になっちゃった。やっぱり軽躁かな、というのはジョークか否か。
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