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躁鬱病(BPⅡ)トウビョウブログ
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 病気になって不自由が多くなった。不自由になったからこそ見えることもある。だが、不自由さゆえの苦しさから自由になることは、どうやらできないみたいだ。むしろ、不自由さの輪郭は日々、明確さを増していく。受容すれば、苦境を抜け出すことができるのか?できないことを<わたしにはできないこと>として受け容れれば、楽になれるのか?それは、諦念と同じなのか違うのか?同じだとすれば、諦めることは良きことなのか?それが誰にでも等しく訪れるものなら、わたしもそれをやり遂げることができるかも知れない。しかし、そうでないなら、わたしは何故、それに耐えなければならないのか。あるいは何故、それを諦めなければならないのか。わたしの不自由とあなたの不自由の中身は違っている。でも、わたしの不自由を、わたしは過大に感じてしまう。過大な苦痛をひとり、背負っているような心持ちになる。それが不当な感じ方だと分かっていても、わたしはその境地から抜け出すことができない。わたしはしぶとく生きるつもりだけれど、わたしが死んだとしても、それを誰からも責められるいわれはない。ひとのために生きるのか自分のために生きるのかで、結果は違ってくるのかも知れない。でも、誰にでも等しく自分のために生きる権利があるとすれば、誰にでも等しく自分のために死ぬ権利があるはずだ。その権利の行使を、わたしは誰からもとやかく言われたくない。誰もがみな不自由を負っているというような類の一般論を、わたしは時々、聞くに堪えがたく感じる。
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